関東では最古参!?専修寺関東別院は真宗高田派の直轄支院

浄土真宗は、現代日本で盛んな仏教の一つですが、いくつかの派閥があります。真宗高田派もその一つで、この宗派は開祖の親鸞聖人が、関東各地を教化していたころ、夢のお告げを聞いて(告げたのは如来とも明星天子ともいわれます)建立した、現在の栃木県真岡市「高田の本寺」に始まるとされています。

この1225(嘉禄2)年にできたお寺は本寺 高田山 専修寺と号し、その翌年には朝廷が認める「勅願寺」の綸旨を受け、寺格、つまり権威も上がったといわれます。
こうして東国の拠点ができたことで、親鸞聖人の教化活動も旅に出る遊行から、本寺中心に変わったとされ、当時は派閥の一つというより、本流とはいわないまでも「関西本社」に対する「関東本社」ぐらいの立ち位置になったわけです。

しかし時代は下り、戦国時代に入って兵火にあって本寺は消失。1464(寛正5)年に専修寺を継いでいた、第10世・真慧(しんね)上人は戦火を避けて、かねて三重県津市一身田町に建立していた「無量寿院」を新たな専修寺とすることにしました。

三重県を含む中部・東海、そして北陸エリアは、かつて真慧自身が布教に回った地域で、無量寿院の建立を懇請するほど熱心な門徒が多い地域でした。こうして高田の地を遠く離れながら、伊勢の専修寺は真宗高田派の本山となったのです。

その後、高田の本寺は江戸時代に復興したので、住職が本山と兼務する、末寺などではない対等な関係となったわけです。そしてその一方の雄である、三重の本山専修寺の別院が、東京大田区にもあるのです。


出典:http://www.senjuji.or.jp/betsuin/kanto.php

専修寺別院の中でも関東の古参

「別院」というのは、Web辞書のデジタル大辞泉によれば「本山のほかに本山に準じるものとして別の地域に設けられた寺院」、または「本寺のほかに別に建てられた本寺所属の支院」ということです。こう書くと分かりにくいですが、いずれも場所は離れていても本山・本寺の一部として活動する寺院、ということは共通しています。

要するに、よそ者が新たに加わって、昔の名前・昔の体制のまま運営するものではなく、本山・本寺が信頼できる者を置いて、意志決定をするシステムのようです。これは企業でいえば、いちいち本社に決裁を仰がなければいけない指揮系統で、意思決定のスピードが遅れるため、ビジネスの世界では前時代的とされる考え方です。

政治の世界でも、やたら地方分権などの表現で、国から自治体に議決権を移そうとするのも、こうした不便さを解消するためです。とはいえ、新しいことよりも、教義を誤解されずに今と後世に伝え、さらに広く、多くの人に知ってもらうことを目的にとする宗教法人には、向いているやり方なのかもしれません。

それはともかく、そんな具合で大田区西六郷の別院も活動しており、本山・本寺と同じ専修寺の寺号を使っています。なお、同様に同じ専修寺を名乗る別院は京都、名古屋、神戸、北海道、福井、千葉、横浜にもありますので、最寄りがあれば訪ねてみるのもいいでしょう。

そんななかでも、関東別院の立地は、京浜急行・六郷土手駅の西口から徒歩約3分とアクセス良好。南側は多摩川緑地野球場ですが、その前に都営住宅の西六郷四丁目アパートも建っているので、見晴らしのいい方角はやや限定されるかもしれません。


出典:http://www.city.ota.tokyo.jp/ota_photo/nendai/s50/19770002.html

それでも、一般墓地の墓域は全区画お参りしやすい平坦さだったり、長時間の法要でも負担がかからないよう、本堂内にはイスを用意するなど、参拝客を考慮した作りが随所に。斎場としては、身内だけの家族葬から、150名ほどの人数に対応可能な斎場な施設となっています。

式場は最大48名、控室は最大60名が収容可能ということですが、式場は本山の別院という立場からか、浄土真宗系のみ利用可能と、宗派にこだわりを感じさせます。それでも受付にも使えるロビーや、10台程度を想定した駐車場などを用意。大きなセレモニーは別にホールを借りるとして、真宗門徒が集まれる中規模会場としては適当な大きさと設備になっています。

明治以前はアキバで人気の、以降は檀信徒に愛されるモテモテ?のお寺

高田派と専修寺の話がメインになってしまったので、ここで改めて関東別院の縁起について触れておきましょう。江戸後期の文政年間に、江戸神田練屏町に創設されたと伝えられます。

練塀町は今もJR秋葉原駅界隈の名として残っていますが、当時は武家屋敷が多く、故に武家によく見られる「練塀」の名が町名になったといいます。つまり、武士・町人を問わず、屋敷に出入りする人の多い街だったわけで、そんななか、別院の前身である寺は「門跡寺」と尊称され、格式の高い寺院として知られていたといいます。

同一ではありませんが、本寺の本尊でもある「一光三尊佛」を安置し、その御開帳には参詣者が詰めかけ、常にお堂に満ちるほどだったといわれます。この一光三尊という仏像は、親鸞上人が夢の中で「本尊にしなさい」とお告げ受け、わざわざ長野県の善光寺までいただきに行ったという阿弥陀像。別院となる前から高田派に縁があったようですね。

それはともかく、「練屏さん」の名で親しまれるほど人気があり、江戸では知名度高まったためか、当時作られた古典落語「宗論」のモデルとしても登場するそうです。「宗論」は明治期に手を加えられ、現在親しまれているのはそちらということですが、それでも芸能ネタになるというのは、ある程度みなさん御存知の状態になっているわけですから、その人気ぶりが偲ばれます。

しかし、この神田の「練塀さん」も、関東大震災で全焼、その後の区画整理と秋葉原駅の増改築で、境内地の大部分を失い、本所石原町(現在の墨田区石原)に移転します。大正13(1924)年ごろのことで、この当時には“東京出張所”とか、“石原出張所”となっているので、本山との結びつきが強くなっていたのでしょう。

なお、この土地も、熱心な檀信徒の寄進によるもので、言葉を選ばずいうと人気の高さが想像できます。とはいえ、この東京出張所も戦災で跡かたもなくなったので、すでに計画されていた関東別院の建設計画とあわせて移転し、墓地と礼拝堂も備える現在の姿に落ち着いたとのことです。

では、改めて宗派などを再確認しましょう。宗派は真宗高田派、御本尊は阿弥陀如来、一光三尊像で、時期によっては御開帳が期待できます。

江戸期までは宗派を問わず愛され、明治以降はピンチのたびに檀信徒が力を貸してくれる専修寺関東別院。本尊・阿弥陀如来の加護だけでなく、人々から愛される何かがあるようにも思います。愛が足りない、愛されたいとお思いの方は、一度お参りして、おすそ分けを期待してみるのも悪くないと思います。

寺院詳細

名称:高田山 専修寺 関東別院
所在地:東京都大田区西六郷4-22-12
TEL:03-3731-1458
最寄駅:京浜急行「六郷土手」駅より徒歩約3分
お墓・納骨堂:一般墓所のほか、永代供養墓、納骨堂あり


出典:http://takadaha-kanto.com/ohaka

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